表題の通りで、常日頃思っていたけども個別のツーリング記事に書くほどでもなかったのでちょっと暇つぶしに語ります。
ツーリングに行くと、たいがい1日に何か所かは「強力なパワースポット」に行き当たります。先日の黒山三滝もそう、少し前に行った古峰神社、三峰神社もそうです。
要はパワースポットと言われるところがしばしば山(特に火山)、滝、巨岩、湖、それに寺社、遺跡といったところで、それらはつまり景観のよい場所であり、自然と文化と静謐さを愛するツーリンガーの大好物でもありますから、ツーリングはふと気づけばパワースポット巡りと化していることがしばしばなわけです。
ただ、自分はそういった景観が好きなだけで、「パワー」に興味がありません。オカルトやUFO、UMA、伝説などは大好きですが、それはあくまでもファンタジーとして、あるいは愉快な議論のネタとしてです。血液型占いやら星座占いやらで一喜一憂している人々を見ると「平和な奴らだな」と思うタイプの人間です。
はっきり言いましょう。
パワースポットなるものから何かの「パワー」が溢れ出ているということはないと思います。いえ、ないです。
精神的(スピリチュアルというよりむしろメンタル)な作用は別ですが、少なくとも物理的なものとしてはない。精神的というのが心理学的な意味合いではなくて単にフィーリングと信仰の話になってしまえば、それはもはや他人がどうこう言う問題ではないのですが、精神世界が存在してそこから何かが送られてくる系の話なら、まあそれはないよね、と言わせていただきます。
ただ、じゃあなぜ自分が動機はどうあれ「パワースポット」が好きなのかと言えば、やはりそこに行くことで何か感じるものがあるからです。
そこにパワーがあるのではありません。マイナスイオンとかいう胡散臭いものもありません。静けさがあり、優れた景観があり、鮮やかな色彩やくすんだ色彩があり、造形があり、生命の歴史や人間の文化があり、そういったものに様々な感動を抱くのです。
何かを感じているのは自分の心・・・意識であり、それを感じさせているのはその場の光景や空気といった外的刺激に加えて、自分がこれまで体験したり学習してきた記憶や知識です。物理的な刺激以外の感覚には時に「神々しい」というようなものもありますが、それも自分の内面から来ているものであって(仮に神が目の前に顕現したとしても、「神々しい」と感じるならばそれは自分がそう感じているのであって、神がそう感じさせているのではないわけです)、決して謎のパワーがそうさせているのではないのです。
ただ、こういうことを言うと、多くの人にはすごく理屈臭いとか、つまらないモノの見方だと思われるわけです。景勝地というのは何か歴史的、あるいは地理的、地学的、生物学的になど何か面白い点があるからそうなっているのですが、のっけからそういうことを言うと、「知らんよ」となってしまうことがしばしばある。
そこで一言、「すごいパワースポットなんだよ」と言えば 、それでもう納得がいってしまえるわけです。そこに行って、歴史だなんだをいちいち理解しなくても、まずは「・・・・ああ、さすが。空気が違うね。すごいパワーだ。」とでも呟いて深呼吸してやれば、旅行に意義が与えられるのです。その上で、それを補完する程度に歴史だなんだの看板を眺めればいい。もちろん、別に眺めなくてもいい。すでに旅の目的・・・パワーを感じることは達成しているので。
そう考えると、この「パワースポット」という概念はすごい発明のような気がしてきました。いろいろなことをまとめて棚上げにしておいて、ひとまずすべてを一言で説明してしまい、「ただ、そこに行く」ということに目的と意義を与えてしまう。
これこそは言霊という奴だろうと思います。言葉をひとつ作ったことで、人々が納得して行動してしまう。その行動で現実の世界が変わって行ってしまう(看板が出来たり、土産屋が繁盛したり)。
「講」だとかもそういうものだったのだと思いますし、極端に行き過ぎなければこういったある種の信仰は悪いものでもないと思います。この信仰というのは、何も特定の神や仏に対するものではなく、要は単純に「超越的な何か」を期待する気持ちです。人々に活力を与えるという意味ではむしろ健全かも知れません。
つまるところ、人は自分の行動に納得感が欲しいのだろうと思います。
だから旅をしたら旅の目的が欲しい。「景色がよい」くらいではちょっと弱いから何か目的が欲しいし、その目的は確実に達成されるものがよいし、しかも自分を高めてくれるなら尚よい。勇者が旅に出てレベルアップするようなものですかね。そう考えるとパワースポットという概念は本当に便利です。
ただ、私は自分の行動に矛盾があっても気にならないタチです。ツーリング先の景色がショボくても腹も立たないですし、無駄足とも思わないです。
だから私には「パワー」は要りません。
例えば神社は立派ですが、立派な神社ほど金がかかっているものです。現時点での維持も大変でしょうが、それよりも大昔にそれを作る時の方が大変だったでしょう。そうとうに現実的なパワー(権力と財力、そして駆り出された人夫の筋力)が消費されたことでしょう。そういうパワーは感じます。
そういうパワーしか感じませんが、それでも神社にいくと5円玉を投げて柏手を打ったりするわけです。
神も仏もいなくても、そんな機会に何かを思い出したり自分を戒めるということが無意味なわけではないのでそうしているのです。
そんなことをブツブツと考えながら、また「パワースポット」に足を向けます。そういう面倒くさい思考で旅をする人間には、やはり自由で一人乗りのバイクがよく合うのだと思う次第です。
ツーリングに行くと、たいがい1日に何か所かは「強力なパワースポット」に行き当たります。先日の黒山三滝もそう、少し前に行った古峰神社、三峰神社もそうです。
要はパワースポットと言われるところがしばしば山(特に火山)、滝、巨岩、湖、それに寺社、遺跡といったところで、それらはつまり景観のよい場所であり、自然と文化と静謐さを愛するツーリンガーの大好物でもありますから、ツーリングはふと気づけばパワースポット巡りと化していることがしばしばなわけです。
ただ、自分はそういった景観が好きなだけで、「パワー」に興味がありません。オカルトやUFO、UMA、伝説などは大好きですが、それはあくまでもファンタジーとして、あるいは愉快な議論のネタとしてです。血液型占いやら星座占いやらで一喜一憂している人々を見ると「平和な奴らだな」と思うタイプの人間です。
はっきり言いましょう。
パワースポットなるものから何かの「パワー」が溢れ出ているということはないと思います。いえ、ないです。
精神的(スピリチュアルというよりむしろメンタル)な作用は別ですが、少なくとも物理的なものとしてはない。精神的というのが心理学的な意味合いではなくて単にフィーリングと信仰の話になってしまえば、それはもはや他人がどうこう言う問題ではないのですが、精神世界が存在してそこから何かが送られてくる系の話なら、まあそれはないよね、と言わせていただきます。
ただ、じゃあなぜ自分が動機はどうあれ「パワースポット」が好きなのかと言えば、やはりそこに行くことで何か感じるものがあるからです。
そこにパワーがあるのではありません。マイナスイオンとかいう胡散臭いものもありません。静けさがあり、優れた景観があり、鮮やかな色彩やくすんだ色彩があり、造形があり、生命の歴史や人間の文化があり、そういったものに様々な感動を抱くのです。
何かを感じているのは自分の心・・・意識であり、それを感じさせているのはその場の光景や空気といった外的刺激に加えて、自分がこれまで体験したり学習してきた記憶や知識です。物理的な刺激以外の感覚には時に「神々しい」というようなものもありますが、それも自分の内面から来ているものであって(仮に神が目の前に顕現したとしても、「神々しい」と感じるならばそれは自分がそう感じているのであって、神がそう感じさせているのではないわけです)、決して謎のパワーがそうさせているのではないのです。
ただ、こういうことを言うと、多くの人にはすごく理屈臭いとか、つまらないモノの見方だと思われるわけです。景勝地というのは何か歴史的、あるいは地理的、地学的、生物学的になど何か面白い点があるからそうなっているのですが、のっけからそういうことを言うと、「知らんよ」となってしまうことがしばしばある。
そこで一言、「すごいパワースポットなんだよ」と言えば 、それでもう納得がいってしまえるわけです。そこに行って、歴史だなんだをいちいち理解しなくても、まずは「・・・・ああ、さすが。空気が違うね。すごいパワーだ。」とでも呟いて深呼吸してやれば、旅行に意義が与えられるのです。その上で、それを補完する程度に歴史だなんだの看板を眺めればいい。もちろん、別に眺めなくてもいい。すでに旅の目的・・・パワーを感じることは達成しているので。
そう考えると、この「パワースポット」という概念はすごい発明のような気がしてきました。いろいろなことをまとめて棚上げにしておいて、ひとまずすべてを一言で説明してしまい、「ただ、そこに行く」ということに目的と意義を与えてしまう。
これこそは言霊という奴だろうと思います。言葉をひとつ作ったことで、人々が納得して行動してしまう。その行動で現実の世界が変わって行ってしまう(看板が出来たり、土産屋が繁盛したり)。
「講」だとかもそういうものだったのだと思いますし、極端に行き過ぎなければこういったある種の信仰は悪いものでもないと思います。この信仰というのは、何も特定の神や仏に対するものではなく、要は単純に「超越的な何か」を期待する気持ちです。人々に活力を与えるという意味ではむしろ健全かも知れません。
つまるところ、人は自分の行動に納得感が欲しいのだろうと思います。
だから旅をしたら旅の目的が欲しい。「景色がよい」くらいではちょっと弱いから何か目的が欲しいし、その目的は確実に達成されるものがよいし、しかも自分を高めてくれるなら尚よい。勇者が旅に出てレベルアップするようなものですかね。そう考えるとパワースポットという概念は本当に便利です。
ただ、私は自分の行動に矛盾があっても気にならないタチです。ツーリング先の景色がショボくても腹も立たないですし、無駄足とも思わないです。
だから私には「パワー」は要りません。
例えば神社は立派ですが、立派な神社ほど金がかかっているものです。現時点での維持も大変でしょうが、それよりも大昔にそれを作る時の方が大変だったでしょう。そうとうに現実的なパワー(権力と財力、そして駆り出された人夫の筋力)が消費されたことでしょう。そういうパワーは感じます。
そういうパワーしか感じませんが、それでも神社にいくと5円玉を投げて柏手を打ったりするわけです。
神も仏もいなくても、そんな機会に何かを思い出したり自分を戒めるということが無意味なわけではないのでそうしているのです。
そんなことをブツブツと考えながら、また「パワースポット」に足を向けます。そういう面倒くさい思考で旅をする人間には、やはり自由で一人乗りのバイクがよく合うのだと思う次第です。
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